メガネ

なんだろう、この頃、いやにものが見えなくなってきた気がする。黒板の文字が、授業に使う正面のは見えるが端の方はよく見えない。とりわけ筆圧が弱かったり、細かい字を書く先生の授業は見えづらいので、解らないといちいち隣の席のこまちをつついて教えてもらっていたのだが、あまり訊くので、授業後、ついに書き込んだ後のノートを丸ごと寄越すようになってしまった。すらりと列ぶ端正な字は、こまち本人にも似て、誤りがない。
「かれん、黒板の字見えないの?」
筆記用具を筆箱にしまいながら、こまちが訊いた。
「見えるわよ」
私は素早く、しかし丁寧に筆を走らせながら応える。
砂を含んだヨウ素からヨウ素を取り出す →昇華:
「前田先生の書く字、小さいのよ」
こまちは聞き取れないほど小さな声で、あら、とか、まぁ、とか呟いて、黒板のほうへ視線を向け、それから、
「そうかもしれないわ」
と応じた。彼女なりにじっくり検証したに違いない十分な間を置いて。瞬間、鼻に抜けるような香りがして、そのせいで頭がくらくらする。なぜだろう。
「そうに決まってるわよ」
蒸留水とエタノールの混合物からエタノールを取り出す→蒸留:
何となく腹立たしい気持ちになりながら、ようやく最後の一文を写し終えた。気づけば広い教室に私たちだけ。こまちも、すっかり帰り支度を整えていた。
「かれん、今日は生徒会なのかしら?」
「それが変更になったの」
緊急職員会議ですって―、補足しながら、せわしなくノートについたゴミをはらう。
「だから、どうしようかと思っていた所よ」
それで貴方の予定は?と尋ねると、彼女は、ちょうどよかったわ、と、目を輝かせた。
「おととい、うららさんと図書館で会ってね。古文で、むつかしい所があるらしいの。それで、私でよかったら力になるからって。ねぇ、かれんも一緒に行きましょうよ」
なつかしい友人の名に、思わず頬が緩む。
「素敵ね。それに、とっても久しぶりだわ」
でしょう、と、こまちは嬉しそうに、にっこりと笑った。
「ノート、ありがとう」
私はノートを渡して筆箱を片付けた。



『華麗なるギャッツビー』は、父のイチ押しである。読みはじめでは、一体どこが素晴らしいのか解りにくいかもしれないが、読み終わった後の余韻は、まさにウイスキーを飲んでいる時のように心地良いものであるらしい。はじめは情景が浮かびにくく、閉口したけれど、きらびやかな時代背景を考慮したり、読書家のこまちに解説してもらったりして、日々、読み進めている。「哀しくも美しいひと夏の物語」のいわんとするところは、私にも、わからないでもない。優雅で透明で、儚くてむなしい。